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第二話 夜
-dreams in the midnight-
1.
「君のことは、遥歩、って呼んでいいかな。俺の方は、まあ好きに呼んでよ。」
圭一さんのマンションへ向かう車の中で、圭一さんはいった。マンションへは車で約1時間程だという。
会ったばかりの人に連れられて1時間も車の中に閉じこめられるときては、いささか不安だったが、
自分で決めたことだ。もし何かあったのなら、それは全て自分が悪い。
県道も、至るところに亀裂が入り、その上を通過するたびに車ごとがくんと揺れる。
辺りの家々も、中には倒壊しているものもあった。
わたしが覚えている限りでは、大きな揺れが3回ほど続いた。
1回ならば耐えられても、それだけ続くと壊れる建物も出てくるだろう。
所々で交通規制がされている。ひっかかるたびに、圭一さんは苛立たしそうに人差し指でハンドルをとんとんと叩いた。
「さっきは1時間くらいだって言ったけど、これはもう少しかかりそうだな。」
圭一さんはうんざりしたように言った。8月の真っ直中、車の中はエアコンが効いていて涼しかったが、
先ほどからずっと車を誘導する警察官は、首からかけたタオルでしきりに顔を拭いていた。
「ご両親のことは、残念だったね。」
わたしのことを気遣ってか、両親のことに関してはあまり触れてこなかったが、
ずっと黙っているわたしに対して、間が悪そうに同情の言葉を掛けてきた。
「いえ。」てんで上の空だったわたしも、ようやく我に返った気がした。
「それよりも、本当にすみません。父が勝手にわたしのことを頼んだばっかりに、
こんなことになっちゃって。」
「いやなに、いいんだよ。」
わたしがやっと口を開いたからか、圭一さんは嬉しそうにいった。
それからは、他愛ない話を重ねながら車を走らせた。至るところで渋滞しており、結局着いたのは約2時間後、
陽が西に傾きかけた頃だった。
圭一さんが「あそこだよ」と指さした先を見て、わたしは驚いた。てっきり安物のマンションを借りているのかと思いきや、
街中に一際目立つ、超高層のマンションだ。あれだけ大きい地震を受けてもこうして無事とは、
見た目同様耐震性も高いみたいだ。これだけのマンションである、家賃も相当なものなのだろう。
この人はそんなにお金持ちなのかと、内心訝ってしまった。
圭一さんの家は7階の一番端だった。中に入ると、まず花の香りがわたしたちを迎えてくれた。
玄関脇にも、奥に見える居間にも、観葉植物が飾られていた。この人は花が好きなんだろうか、と思った。
「こっちの部屋は使ってなかったんだ。今はちょっと汚れちゃってるけど、君の部屋ということでいいかな。」
と、ドアを開けながら言った。部屋の中はベッドと本棚、壁にはクローゼットらしき扉と、カーテンが引いてあった。
広さは8畳くらいだろうか。わたしには十分すぎる広さだった。
「でも、いいんですか?本当にわたしがお邪魔になっても。」
「もちろん。俺も、こんな可愛いお嬢さんと一緒に住めるなんて、うれしいよ。」
わたしは一瞬どきっとした。やはりこの人は、わたしを欲していただけなのだろうか。
圭一さんの顔を見た。だがその時、心臓がどくんと大きくはずみ、すぐに目をそらしてしまった。
そんなわたしを見て、圭一さんは、自分の言ったことがわたしの気に障ったと思い、あわてて謝った。
「あ、ごめんな、勝手に変なこと言って。」
「い、いえ。」
しばし間が悪い空気が辺りを包んだ。わたしは今までもあまり男性と関わったことがなく、少し緊張していたが、
しかし圭一さんを見ていると、なんだか自分と同じなのではないかと思えてきた。
「そうだ、お腹空かない?飯でも食いに行こうか。」
圭一さんが切り出した。わたしも賛同した。
すくなくとも、この時点で、わたしは圭一さんが悪い人ではないと、直感的に感じ取っていた。
2.
大学の帰りがけ、わたしと凛ちゃん、それに美里ちゃんで、駅の近くのゲームセンターへ足を運んだ。
外はもう秋風が体を打ち、陽が沈めばすっかり寒くなって来たが、店の中は違っていた。
客はまばらながらも、けたたましいゲームの音が鳴り響き、コインやキーを叩く音があちらこちらから聞こえてくる。
その上熱気で、まるでこの部屋だけ別世界のように感じてしまう。
誘ったのは美里ちゃんだ。負けず嫌いの美里ちゃんは、今日こそは勝ってみせると勝負を挑んできた。
だが、その勝負の相手はわたしではない。誰が見ても熱血格闘ゲームオタクには見えない、凛ちゃんだ。
人は見かけによらないとはこのことだ。この凛ちゃんが格闘ゲーム好きだと聞いてからも、
実際その指さばきを目の当たりにするまで、わたしはてんで信じられなかった。本人曰く、
家庭用ゲーム機なら一秒間に24回ボタンを連打できるという。今日の凛ちゃんも、
わたしの期待を裏切らず、一段と激しい動きだった。通りかかる人も、驚くというよりは
呆れたような顔をして、その手の動きを見てゆく。3回勝負のうち、2本制すれば勝ちだが、
あっという間に勝負はついてしまった。
「だあっ!また負けた!」
美里ちゃんは勢いよく椅子の背もたれにふんぞり返った。凛ちゃんはと言えば、
あれだけ激しい動きをしたにも関わらず、息一つ切らせず、微笑を浮かべて実に満足げだった。
その表情を見ると、つい凛ちゃんが怖い存在に思えてしまう。
「今日こそはいけると思ったんだけどな。」
「まだまだ修行が足りない。」
凛師匠のきびしい一言だった。
「よし、じゃあ次、遥歩。」
今度はわたしの番らしかった。凛ちゃんは席を立ち、「遥歩、がんばれ」と声を掛けてくれた。
わたしは決して得意ではない方だが、美里ちゃんとなら良い勝負だ。
椅子に座ると美里ちゃんは、「負けたらジュース一本ね」と啖呵を切ってきた。
「望むところ!」と、わたしも言い返した。家計を節約するためにも、ここは決して負けられなかった。
美里ちゃんが満足するまで遊んだ後、わたし達は電車に乗った。結局損したのは美里ちゃんだけだった。
だが、あまり機嫌は悪くなく、いつも通り饒舌だった。美里ちゃんは自分が楽しければ、
たとえ落第しようが一文無しになろうがかまわないような性格だった。
講義の終わる時間とずれていたので、電車の中は割と空いていた。辺りはすっかり暗くなり、
上り線のこの列車にはサラリーマンもおらず、ぱらぱらと学生が乗っているくらいだった。
なので、ほとんど一人で喋っている美里ちゃんの声もよく響いた。
「で、遥歩。センセとは上手くいってるの?」
センセとは圭一さんのことだ。わたしが圭一さんに気があることに気づいてか気づかないでか、
いつもからかってくる。ゆかりちゃんの時といい、美里ちゃんは男女の色恋話が好きだ。
「上手くって、別に・・・」
わたしは言葉を濁した。美里ちゃんのこういうところは、嫌いではないが苦手だ。
話を変えようと思ったが、美里ちゃんの方が素早かった。
「またまた、別にだなんて。恥じらう年でもあるまいに。」
「だから、そんなんじゃないって。」
「そういえば、今日は旦那さんに料理作るの?」
「ううん、今日は圭一さん、午後は休みでもう帰ってると思うから、多分夕ご飯も用意してくれてると思う。」
なんとか話題がそれたので、わたしはほっとした。しかし言われて気が付いたが、恐らく圭一さんはわたしが早く
帰ってくるだろうと思っているはずだから、長居したことに少し罪悪感を感じた。
「へえ。センセの料理おいしいからね。それなら、あたし達もお邪魔しようか、凛。」
わたしは驚いて、思わず声が裏返ってしまった。
「ええっ?だ、だめだよ、そんな急に。」
「凛も楽しみ。」と、凛ちゃんもその気になっていた。
「り、凛ちゃんまで・・・」
あわてふためいてるわたしを見て、美里ちゃんは笑い出した。
「あはは、大丈夫よ、気にしなくても。誰も旦那様とのあつ〜い夜を邪魔したりしませんよ。」
冗談だとわかると、今度は羞恥心が顔に出て、赤くなってしまった気がした。
凛ちゃんまでもが、くすくすと笑っていた。
「もう、二人してわたしをからかって・・・」
そんなやりとりをしている中、電車が止まった。駅に着いたみたいだ。
二人はまだ先なので、わたしだけが降りた。駅前は店の看板が夜の街を作り出しているが、
商店街はひっそりと静まりかえっている。定期的に並ぶ街頭は、夜のさらに深い闇へ誘う門のようだった。
マンションの下まで着いて、上を見上げた。わたし達の家の位置、7階の一番端は電気が点(とも)っている。
このマンションは10階建てだが、入居率は3割程度だと、以前聞いたことがある。
大神災以前はもっと入っていたらしいが、それ以降は東京の地価が下がったため、
東京周辺に移り住むために出て行ってしまったと聞いた。
結局のところ、どんなに高級なマンションでも安いアパートでも、人が入らなければつぶれていく。
圭一さんもいずれは出て行くのだろうか。大学の助教授であり続けるなら、
このマンションはいい位置に建っていると思うが、
もし出て行くとしたらわたしはどうなるのだろう。
「お帰り。遅かったんだな。」
居間に入ると、圭一さんはいつものようにソファにもたれ掛かり、テレビを点けながら観葉植物の雑誌を読んでいた。
「ごめんなさい、みんなとちょっと寄り道してて。」
特に怒っているというわけでもなく、いつも通り優しくて穏やかな圭一さんだったが、
念のため謝っておいた。
「飯は?まだなんだろ?」
「うん。今日は圭一さんが作ってくれると思って、楽しみにしてたんだから。」
「はは。それはどうも。じゃあ先に食っちゃうか?」
「うん。」
キッチンからは先ほどから良い香りが漂ってきていた。わたしはすぐに自室へ引き返して、荷物を置いた後、
キッチンへ向かった。
圭一さんは鍋を火にかけており、白い湯気がこんこんと立ち上っていた。今日はホワイトシチューのようだ。
わたしは食器類などを用意していた。匂いにそそのかされて何度かお腹が鳴ったが、
圭一さんは気づかなかったみたいなので安心した。
「そうだ、遥歩。」圭一さんは鍋をおたまでかき混ぜながら言った。
「俺の上着をベランダに干したままにしてたんだ。悪いんだけど、しまってきてくれないか。」
「はーい、分かりました。」
わたしはぺたぺたとスリッパを鳴らしながらベランダへ向かった。だが、何かが心にひっかかっている気がした。
確かに、今まで取り込まなかったことも不思議だし、わざわざ食事の準備をしている最中に
取り込んでくれというのも不自然だ。そのいくつかの不自然が意味を成すのかどうかは、わたしには分からなかった。
ベランダには確かに上着が物干し竿に掛けられていた。わたしはそれを取り込んで、出窓の鍵を閉めた。
ひとまず部屋の窓の桟に引っかけた。
「さんきゅう。はい、これ。」
鍋はテーブルの上に置かれており、食事の準備は整っていた。
戻ってきたわたしに、圭一さんはコップ一杯の麦茶を差し出してくれた。
「ありがとう、圭一さん。」
わたしはそれを軽く飲んで、席についた。
「それじゃ、いただきまーす。」
圭一さんは時折手を休めて、わたしの食べる様をじっと見ていたようだった。
3.
日射しが眩しい、夏の日のことだった。
蝉がけたたましく鳴く、太く大きな木の木陰。確か、なだらかな丘の上だった。
私は白いワンピースを着、5歳の誕生日の日に買って貰った白い帽子を被って、その木陰に座っていた。
隣には男が一人いた。私はいつもその男をお兄ちゃんと呼んでいた。
私よりも幾分年が上で、とても頭が良く、お父さんとお母さんのお手伝いをしていたらしかった。
お兄ちゃんは本当の兄ではない。お父さんとお母さんがいつも忙しいので、
お兄ちゃんは手の空いたときに、まだ幼い私の子守をしてくれた。
いつしか私は、その男をお兄ちゃんと呼ぶようになったのだ。
私の隣で、お兄ちゃんは私に本を読んでくれていた。
私は、妖精や魔法使いや綺麗なお姫様の出てくる童話が大好きだった。
まだ妖精が何か、魔法が何かも分からなかったが、
それでもその単語の裏に秘められた不思議な響きが、私は好きだった。
お化けは好きではなかった。でも、お兄ちゃんが隣にいたので、私は怖くなかった。
「大野君。」
丘の下からお父さんの声が聞こえた。お兄ちゃんは立ち上がって、「はい」と返事をした。
「済まない、ちょっと手伝ってくれないか?」
「はい、分かりました。すぐ行きます。」
お兄ちゃんは私に手を差し出し、「行こう、遥歩ちゃん」と声を掛けた。
「ご本は?」私はいった。お兄ちゃんは、「ごめんね、続きは後でね」といって、
私の出した手を取って立ち上がらせた。そのまま手を引かれて、丘を下った。
お兄ちゃんとお父さんは、研究所と呼ばれる、大きな建物の中に入っていった。
私は入り口に残された。「すぐ戻ってくるから」とお兄ちゃんは言ったが、
私はお父さんにお兄ちゃんを取られたことに怒っていた。
そして、建物の裏手にある、絶対に入っては行けないという場所のことを思いだした。
いつもみんなで私をのけ者にする。お父さんもお兄ちゃんも他の人たちも入っているのに、
どうして私だけ入ってはいけないのか。
私は裏手に回り、ドアの前に立った。私の背ではノブを掴むのが精一杯だったが、
なんとか回して押すくらいは出来そうだった。
鍵は開いていた。ギイッ、と低い音がして、静かにドアは開いた。
中には何もなく、ただ下へ下る階段だけがあった。
階段の奥は真っ暗で、何も見えなかった。
私は怖くなったが、でも階段の奥にはお兄ちゃんが待っていてくれるような気がした。
おそるおそる一歩目を踏み出した。続いて二歩目、三歩目。
足を前に出すごとに、恐怖感は少なくなっていった。
中はひんやりとしている。私はさらに歩みを進めた。
カタン、カタンと足音が響く。階段はどれだけ続いているのかも分からなかった。
私は壁に手をつけ、怖がりながらも下を目指した。
視界が闇に包まれた。その先に何があったのか思い出すことはできず、夢から覚めてしまった。
4.
頭がぼうっとしていた。だがそのうちに、わたしは夢を見ていたのだと分かった。
目を少し開いた。辺りは暗く、ぼんやりとオレンジ色の光が映った。わたしの枕元においてあるライトだ。
だが、わたしはいつも寝るときにちゃんと消しているはず。点いているはずはなかった。
体を起こそうとしたが、まったくいうことがきかなかった。それどころか腕一本、指先すら動かせない。
おかしいと思って声を上げたが、それも声にならない。どうやら、金縛りにあってしまったらしい。
怖くなったが、どうすることも出来ない。心の中で助けて、と声を張り上げたが、それも意味のないことだった。
わたしの前に一人の人の姿が映った。圭一さんだった。
圭一さんはわたしの顔を一瞥すると、すぐにまた消えてしまった。
助けに来てくれたのだとばかり思っていたわたしは愕然とした。だが、圭一さんは再び戻ってきた。
手に何かを持っているようだったが、今の角度ではそれは映らなかったため、何かは分からなかった。
圭一さんはしばらくわたしの腕に触れているようだった。感触はしなかったが、なんとなくそんな気がした。
その後、圭一さんは何度かわたしの周りを行ったり来たりしていた。
時々止まってはわたしの体に何かをしているようだったが、定かではなかった。
最後に、圭一さんはわたしの頬に手を当て、いつもの優しい、
けれどどこか悲しみに満ちた表情で、わたしを見つめていた。
口元がわずかに動いたが、何を言ったのかは聞き取れなかった。
圭一さんはライトを消した。再び辺りは暗闇に閉ざされ、
直後にわたしの頭の中にも闇が広がり、すぐに意識はなくなっていった。
単調な目覚ましの音で、わたしは目を覚ました。手を伸ばすのも億劫になったが、
やかましい目覚ましを止めるため、寝返りを打って手を伸ばした。時間は7時。圭一さんはまだいるだろうか。
洗面所で顔を洗い、なおも襲う眠気と戦いながら、居間へ向かった。圭一さんは立ってネクタイを締めながら、
朝のニュースを横目で見ていた。
「おはよう。」
わたしに気づいた圭一さんは言った。その瞬間、頭の中にもやもやしていた考えが一気に膨らんではじけた。
昨晩、夢とも現実ともつかぬ、不思議な光景を見た。最初は夢だったはずだ。わたしの幼い頃の夢。
自分の小さい頃の夢を見るのはよくあることだった。だが、見るのは決まって5歳以降のもの。
それより幼い頃の夢は、自分の記憶にも無いせいか、まったく見たことがない。
そして、その夢が終わった後、わたしの前に圭一さんが現れた気がした。
あれも夢だったのだろうか。意識はもうろうとしていたが、それでも単に夢だったと片づけられるほど、
現実味の無い感覚ではなかった。それでは、本当に圭一さんがいたのだろうか。
訊くのはなぜか怖かったが、それでも不安に駆られて訊ねてみた。
「圭一さん。」
「ん?」
テーブルの上に置いてあったコーヒーを口に運びながら、わたしの方を向いた。
「昨日、わたしの部屋に来た?」
言った途端、圭一さんの顔から笑みは消えた。動揺しているのは明らかだった。
わたしは、あれが夢であったことを肯定する前提で話した。
「昨日ね、おかしな夢を見たの。わたしがベッドの上で寝てたんだけど、
目が覚めても手足が動かせない状態で声も出なくて。
怖かったけど、どうしようもなかった。でも、そこに圭一さんが入ってきたの。
そのあと圭一さん、その、わたしの色んなところ触ってるみたいな感じがして。
しばらくして圭一さんが出て行ったあと、わたしもまた眠っちゃったみたいなんだけど、
起きてから考えると、あれは夢じゃなかったような気がして。
といっても、本当にあったとも思えないし。圭一さん、どっちだと思う?」
わたしは、話しながらソファへ腰を下ろした。最後の一言だけは、圭一さんの顔を見ながら言った。
圭一さんはわたしを見ていなかった。だが、言い終わると、少し黙ってからこちらを見て、
「夢だよ、きっと」とぎこちない答え方で言った。
「どうしてそう思うの?」
わたしは間髪入れずに言った。圭一さんはまた目をそらして黙ってしまった。
カップから立ち上るコーヒーの湯気が、圭一さんを包み、隠してしまいそうだった。
部屋の中には得体の知れない、ぴりぴりとして空気だけが残った。
部屋の中はテレビから流れる朝の天気予報が響くだけで、静かだった。わたしは、言ってから後悔した。
あれが夢だろうと現実だろうと、どちらでも構わなかった。圭一さんがわたしが寝ている間に何をしようが、
構わなかった。わたしにとって何よりも大切なのは、圭一さんとの距離をこれ以上広げないことだった。
あの日以来、圭一さんはわたしに一定の距離をおいたままだ。わたしから詰め寄ることも出来ず、
だらだらとそのまま過ごしてしまっている。そして、今の一言が、また距離を広めたのは明らかだった。
馬鹿だ、わたしは。つくづく嫌になるほど。
「遥歩、俺はただ……」
圭一さんは呟くように言った。わたしはそれを遮るようにソファから立ち上がって、
自室へ向かって歩き出した。圭一さんの横を通り過ぎるときに、
「ごめんなさい、変なこと言って」と、囁くように謝った。それがわたしにできる、最大限のことだった。
圭一さんはわたしを引き止めはしなかった。
圭一さんの反応からして、あれは夢なんかではなかった。圭一さんは何が目的で、わざわざ夜中に、
わたしの部屋へ忍び込んだのか分からなかったが、知りたいとも思わなかった。ドアを閉めると、
わたしはまたベッドに倒れ込んだ。悔しくて泣いた。まくらに顔を沈めて、声を殺して泣いた。
圭一さんだって傷ついたはずだ。もうダメかも知れない。思いたくはなかったが、
その一言が脳裏に焼き付いて離れなかった。部屋の中には、目覚まし時計がわたしをからかうように、
いつまでもコチコチと時を刻んでいた。
廊下から「行ってくるよ」と、圭一さんの声が聞こえた。返事はできなかった。
圭一さんもそのまま家を出て行った。
滅多に大学を休まないわたしだったが、今日だけは行く気になれなかった。
第一話
第三話